LOGINその日の午後、少女が目を覚ましたとの連絡を施療院から受けたスフェルは再び、城を抜け出すことにした。朝、帰城して、セイランと共に説教の第二波と第三波をやり過ごしてすぐのことだった。
「スフェル殿下……そのくらいのことでしたら、私を向かわせればそれで済むことではないでしょうか? 先程まで、陛下にも将軍閣下にもこってり絞られていたのをお忘れですか?」 スフェルの愛馬の背に淀みない慣れた手付きで鞍を乗せてやりながら、セイランは己の主へと苦言を呈する。ちらりと目線を動かすと、隣に繋いでいたセイランの馬であるクローチェががりがりと前掻きを繰り返しており、セイランはまったくどいつもいつもという気分になる。溜息を吐きつつ、黒鹿毛の馬の腹帯をぐっと締め上げると、耳を絞った黒褐色の顔面と後ろ足が彼をめがけて飛んできた。何だか今日は踏んだり蹴ったりだった。スフェルは愛馬の鼻面をわしゃわしゃと撫でてやりながら、 「あの少女を保護したのは私だ。施療院に任せきりにするというのも無責任ではないか」 「殿下……やけにあの娘を気にしていらっしゃるようですが、あの者に何かあるんですか? あと、すぐそうやってオリーブを甘やかすのはやめてください、私がオリーブにナメられますし、クローチェにも悪影響で何もいいことがありません」 名前を呼ばれた栗毛の馬がセイランの背中に顔を擦り寄せてきた。たぶん、これは顔についた虫を擦り付けられている。せっかく冬に向けて新しい上着をおろしたばかりだったのに、とセイランは溜息を零す。 そんな従者の青年の様子に特に意に介したふうもなく、これは必要なコミュニケーションだなどと宣うと、スフェルは真顔になる。彼は辺りに人気がないことを確認すると、セイランへと囁いた。 「セイラン。昨晩のフィエロの事件の捜査が教会預かりになるという話を覚えているか?」 「ええ……しかし、それが何か……?」 セイランは怪訝そうに頷く。 「お前も気づいているだろうが、おそらく何らかの形であの少女は昨夜の事件に関わっている。そして、教会側が全滅したはずのフィエロの生き残りかもしれない彼女に行き着くのも時間の問題だ」 「まあ、そうでしょうね」 「私たちも可能な範囲で彼女から話を聞く必要があるが、それ以上に教会から彼女を守ってやる必要がある。今の教会は彼女に教会の満足する内容を証言させるまで尋問を繰り返すくらいのことはするだろうし、更に口封じのために最終的に彼女を消すくらいのことは厭わない。教会側が手出しをしづらくするためには、私が先に彼女に接触しておいたほうがいい」 「つまりは、あの娘を事実上、殿下の庇護下に置くということですか……。しかし、そのように権力を笠に着るようなやり方は、殿下はお好きではないのでは……?」 「何度でも言うが、少女一人すら守れなくて、何が王族だ。民を守るために、私の威光が役に立つというのなら、それを振りかざすことを厭いはしない」 スフェルはきっぱりとそう言い放った。 そのとき、セイランの馬の耳がぴんと立った。栗毛の馬の視線の先から、人が近づいてくるのが聞こえる。スフェルは肩をすくめて、 「さて、見つかる前にさっさと行くとしようか。抜け出したのが知れてしまえば、また私もセイランも怒られてしまうからな」 スフェルは愛馬の左側に立ち、手綱と鬣をまとめて掴んだ。鐙に爪先をかけて、馬上に体を押し上げる。セイランは何度目かになる溜息をつきながら、主に倣って栗毛の馬に跨った。 セイランは脹脛で馬体を圧迫すると、先を行く黒鹿毛の馬の後を追い始めた。施療院に着き、馬を繋ぐと、セイランは茶色の扉を叩き、訪いを告げた。すぐに白衣に身を包んだ煉瓦色の髪の若い男が顔を出した。
「スフェル殿下、セイラン様。どうぞ、こちらへ」 若い医師は、二人を建物の中へ招き入れる。 「イスタ殿、あの少女の具合はどうだ?」 「それがその……」 スフェルが問うと、イスタの銀縁の眼鏡の奥にある飴色の瞳に困惑の色がありありと浮かぶ。 「……どうやら、あの娘は記憶をすべて失っているようなのです」 躊躇いがちにイスタが口にした言葉に、スフェルとセイランは一瞬、言葉を失った。少女の容態に関する事実を受け止めることに瞬き一回分の時間を費やした後、「……そうか」小さく呟き、スフェルは黙り込む。 「記憶が戻る可能性はないのでしょうか? それに、すべてというのはどのくらい……」 主の様子を気にしながら、セイランは疑問を口にする。イスタは首を横に振り、 「現時点では一時的なものなのかどうかも判断できかねますが……殿下が保護されたあの娘はよほど酷い目にあったのでしょう。思い出すことがあの娘にとってよいことなのかどうか、私にはわかりません。あの娘は……自分の名前すら忘れてしまっているのですから」 「……そうですか」 セイランとイスタの会話を聞きながら、やはりあの少女は昨夜のフィエロの事件に関わっている可能性は高いとスフェルは思った。なればこそ、尚更、あの少女の身柄が大司祭たちの手に渡ることは防がねばならない。記憶を失った哀れな少女を下手に刺激させたくはなかった。スフェルはヘーゼルの瞳でイスタを真摯に見据えると、口を開く。 「無理を承知でお願いする。あの少女に会わせてくれないか」 「殿下の頼みであったとしても、医療従事者として許可できません。お言葉ですが、あの娘に今は負担をかけるべきではありません」 「わかっている。ただ、様子を見て、話をするだけだ。無理に何かを聞き出すつもりもなければ、長居をするつもりもない。イスタ殿も立ち会ってくれて構わない。だから、頼む」 「……五分。五分だけです。それ以上は許可できません」 イスタは根負けして、渋々ながらも条件付きでスフェルたちへ面会の許可を出す。彼は、二人を伴って、廊下を進む。 「入りますよ」 イスタは突き当りの部屋の扉を叩く。扉を開けると、消毒液の匂いがする部屋の中、白い清潔なシーツに覆われたベッドの上で真新しい包帯を巻かれた右肩を庇うようにして、灰色の髪の少女が体を起こしていた。 スフェルたちが病室に入ると、彼女の苔色の双眸に警戒するような色が浮かんだ。誰、と小さな声で彼女は誰何を問う。 「こちらは王弟殿下とその従者の方です」 イスタが困ったように、少女へと二人が何者なのかを説明する。少女は怪訝そうに眉根を寄せた。その瞳はスフェルが携えた剣をちらちらと見ていて、警戒の色が消えない。 「王族の方……?」 剣が怖いのかと思い、スフェルは自衛のために持っていた剣を鞘ごと外して、セイランに渡す。膝を折ってかがみ込み、少女と目線を合わせる。セイランの藍色の視線が咎めるような視線が彼の側頭部に刺さる。 「私はスフェルという。先程、イスタ殿が言っていたように、一応王族ではあるんだが、そう畏まらないでくれ。今朝、城を抜け出したときに、西の街道で君を見つけて保護したのは私だ。記憶のことはイスタ殿から聞いてはいるが、ともかく体の方は大事なかったようでよかった。……そうだ、忘れないうちにこれを」 スフェルは黄色いシンビジュームの花束を少女へと差し出す。 「お花……」 「ああ、今の時期に咲く花なんだけれどね。城の庭に咲いていたのを使って、あそこにいる私の従者……セイランに花束にさせたんだが、まあまあ悪くないだろう?」 少女の苔色の目が、スフェルの傍に控えるセイランを見る。少女は手の中の花束とセイランを見比べると、くすりと小さく声を立てて破顔した。 セイランはなんだかなあと思いながらも、スフェルが少女の笑顔を引き出すことに成功したのでまあよしとする。スフェルが少女の見舞いに何を持っていくべきか城を出てくる前に悩んでいたのをセイランは知っているし、セイラン自身、どうにか見栄えのするようにまとめようと悪戦苦闘させられた。 「……エミル」 スフェルの唇が聖典に載っている神の使徒の一人の名前を紡ぐ。記憶を失って間もないというのに、こうして笑うだけの力があるだけの彼女ならば、きっと自分の足で立って生きられるとスフェルは思った。だからこそ、そんな彼女に与えるなら、この名前がいいと思った。少女はきょとんとして首を傾げる。 「呼び名がないというのも不便だろう? エミル――君の仮初の名前だ。気に入らなかったり、元の名前を思い出したときは変えてくれて構わない。ただ、今はそう呼ばせてもらっていいか?」 少女はこくりと頷いた。 「エミル、覚えておいてくれ。君は命以外のものをすべて失ってしまったかもしれないけれど、君は決して一人ではないということを。何かあれば、いつでも私を頼ってくれて構わない」 スフェルが少女――エミルにそう言ったとき、廊下にどたどたと荒い何者かの足音が響いた。間髪開けずに、乱暴にドアが開かれ、ごてごてとした装飾の施された法衣に身を包んだ小太りの初老の男が病室へと飛び込んできた。セイランは闖入者へと厳しい視線を向け、腰に携えていた自分のロングソードの柄へと手をかける。 「セイラン、やめろ。彼女をあまり刺激するな」 スフェルはセイランを制止すると、闖入者の男へと向き直る。教会の古狸がやはり嗅ぎつけてきたか、とスフェルは内心で舌打ちをする。 「ヴェルマ大司祭。ここは施療院だ。騒がしくしないでいただきたい。私に何か用があるのであれば、城で伺おう」 スフェルが言外に帰れと告げると、大司祭は鼻息荒く言い返す。 「スフェル殿下。私めは殿下ではなく、そこの娘に用があるのです」 「今は話ができる状態ではないのが、見てわからないのか。生憎だが、出直していただきたい。急ぎの用であれば、私が代わりに伺おう」 「いえ、殿下の手をわずらわせるほどのことではございません。ただ、私めは、そこの娘にフィエロの事件について聞きたいだけなのですがね」 スフェルとエミルへと舐めるように視線を這わせながら、大司祭は嫌な笑みを浮かべてそう言った。 「何か誤解があるようだが、その娘はフィエロの事件には関係ない。お引取りいただこうか」 スフェルは動じることなく、そう宣った。しかし、ヴェルマも引き下がることなく、 「しかし、今朝、殿下が街道で少女を一人保護したなどという話を耳にしておりますが、それがその娘ではないのですかな?」 「人違いだ。私は今朝は城にいたし、その娘はそこにいる私の従者の縁者だ」 スフェルの言い放った言葉に、勝手に親戚を増やされたセイランは内心で頭を抱える。エミルの困惑した苔色の瞳がセイランを見る。 「大丈夫です。きっと、殿下ならあなたにとって悪いようにはしませんから」 セイランはエミルを安心させようとそう言葉をかけた。わかりました、と彼女は頷く。セイランは、ヴェルマのほうへと向き直ると、 「ええ、その娘は私の従妹のエミル・ゼーヴェです。三日前、階段を踏み外して頭を強く打ち、こちらに入院していたのですが、意識が戻ったとの連絡を受け、面会にきていました」 スフェルの嘘の上に即席の設定を重ね、セイランは主君へと同意を求めるべく、視線を送る。視線が交錯すると、スフェルはわかったとでもいうように軽く頷いて、 「ああ、セイランがやたらと気を揉んでいたから、私も気にかかっていてな。無理を言って見舞わせてもらった次第だ」 臣下の身内は私の身内も同然だからな、とさり気なさを装って言い添えたスフェルを無言でヴェルマは睨め上げる。王家を敵に回したくなければ手を出すなと暗に言われた大司祭は引き下がるほかなかった。 「……どうやら、私めの勘違いだったようですね。私めはこれで失礼しましょう」 怒気を孕んだ口調でヴェルマはそう言うと、入ってきたときよりも荒々しく病室を出ていった。スフェルは肩をすくめてその背中を見送った。神経質そうな若い医師は、帰るときですら騒がしい招かれざる客に青筋を立てていた。 「あの……今の人は? フィエロの事件って何ですか?」 エミルは問うた。スフェルを見上げる苔色の瞳には意志の光が宿り始めていて、芯の強さを感じさせた。どこまで話したものかとスフェルは思案しながら、 「今のはヴェルマ・イェール大司祭だ。今の人は昨夜近くのフィエロという村であった事件と今朝、西の街道で倒れていた君に何らかの関係があるんじゃないかと思って話を聞きに来た。だけど、今の状態の君に無理をさせたくなかったから、少し強引だがお帰りいただいた。……あの人たちは都合のいい証言を君から引き出すためなら、どんな手段だってとるだろうからな」 「ええと……じゃあ、私がセイラン様の従妹というのは……?」 「申し訳ありません。あの場を収めるために殿下の嘘に乗らせていただいただけです。あなたがどこの誰なのかというのは、わかっていないのが現状です」 嘆息しながら、セイランはエミルへと頭を下げた。教会の強硬派の追及からこの少女を守るには、実際に『エミル・ゼーヴェ』という人物の戸籍を捏造してしまったほうがいいかもしれないという思考がふっと彼の脳内を過ぎった。無理にでも、彼女にある程度の立場や肩書を持たせてしまったほうがスフェルにとってはこの娘を守りやすい。セイランは帰城後に取るべき手続きの算段をし始めた。 「……スフェル殿下、セイラン様」 苛立った青年の声が二人の背に投げかけられる。細い銀縁の眼鏡の奥から向けられた視線は氷のように冷たい。 「お約束のお時間はとうに過ぎておりますが」 「大変申し訳ありません。……殿下、そろそろ帰りましょう。エミルの身体に障ります」 イスタの言葉の内から、とっとと帰れという意思を感じ取り、セイランは詫びの言葉を告げると、主君へと退室を促す。 「失礼した。エミル、また来る。思うことはいろいろあるかもしれないが、今はとにかく心と体をゆっくり休めてくれ」 スフェルはそう言うと、セイランを伴って病室を出ていった。見送りのために、イスタも彼らを追って部屋を出ていく。 部屋の中が静まり返り、エミルはあかぎれのある自分の両手に視線を落とす。 自分は誰なのだろうと思う。自分の手を見る限り、きっと記憶を失う前の自分は王家や教会の上層部などまったく関係ない生き方をしていたはずなのに、自分を巡った鞘当が起きているのは一体何故なのだろう。 けれど、あのスフェルという王弟は、自分を守ろうとしてくれた。突然、病室に入ってきた大司祭だという人物に比べ、誠実そうだと思った。身を案じてくれた言葉からは嘘は感じなかった。 自分の本当の名前や年齢すらも思い出せないし、一体今何の渦中にいるのかも全くわからないけれど、スフェルのことは信じてもいいのかもしれないとエミルは思った。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







